沿革

 株式会社英文法令社は、日本政府の公益法人改革にともない、理事会と評議員会で決めて、文部科学省の許可を得て、財団法人英文法令社を平成24年12月1日より民営化して運営しているものである。

株式会社英文法令社の前身の財団法人英文法令社は、1956年(昭和31年7月27日)、亜細亜大学初代法学部長中根不覊雄(大正12年東京帝国大学経済学部卒・大正14年東京帝国大学法学部卒)を中心として創業された。(中根不覊雄は銀時計を2つ持っていた。) 財団法人英文法令社理事長兼編集長だった株式会社英文法令社代表取締役社長兼編集長の佐藤賢一(平成3年早稲田大学政治経済学部卒)は、中根不覊雄の孫である。

この事業の発端は、連合軍による日本占領時代にさかのぼる。東京裁判でA級戦犯として東條英機首相が裁判にかけられた際、東條の弁護人を引き受けた清瀬一郎弁護士は、「東條は悪い。悪いからこそ弁護する。」と言っていたと清瀬弁護士の次男の清瀬信次郎(亜細亜大学名誉教授、英文法令社理事長、平成18年4月10日没)が述べていた。昭和31年に英文法令社の設立許可を出したのは、文部大臣清瀬一郎であった。中根は昭和58年に亡くなる際に、家族に向かって「英文法令社を続けてくれ。」と言って、亡くなった。生前、中根は「翻訳ばかりやっているのは、学者として常道をはずれるかもしれないが、この仕事をライフワークとして続けたことに悔いはない。」と述べていた。占領当時、GHQの命令により官報は、日本文と英文の両方が発行されており、また新たに制定あるいは改定されるすべての法令も、政府の責任で英訳され、公布されていた。中国大陸からの引揚者であった中根が帰国後、手がけた仕事はこれら法令の英訳であった。元々は日本銀行で翻訳のお手伝いをしていたことが始まりだったという。昭和27年4月に、対日講和条約(サンフランシスコ講和条約)が効力を発し、我が国が独立を回復すると、日本政府はまず、これら法令の英訳公布を廃止し、戦前通りの日本文のみにした。しかし、我が国の法令の英訳は、アメリカと関係を有する諸団体のみならず、実業界からも切望されていたので、金森徳次郎(日本国憲法の起草者の一人)国立国会図書館長の発案で、中根は個人として、関係省庁より英文官報使用の許可を得て、田尻常雄東京経済大学学長、松本重治国際文化会館理事長、外国人法律家(トーマス L. ブレークモアやリチャード W. ラヴィノウィッツ等)の後援、および米国フォード財団の財政的援助をうけ、昭和31年に財団法人英文法令社として最初のスタートを切った。ここに英文法令社という我が国法令の英訳を目的とする機関の成立を見たわけである。

初代の理事長に田尻常雄が就任し、理事として中根不覊雄、宮沢俊義、小池厚之助、橋本保の方々をお迎えした。また監事に名取幸二、湯浅恭三、評議員として雨宮龍吉、尾後貫荘太郎、横田正俊、杉原雄吉、ほか多くの協力者を得た。以来、毎日欠かさず官報に眼を通し、新しい法律の制定や政令・省令の改正が行われるたびに、現行法としていくのは大変な仕事であった。英文法令社の日本法令英訳は、世界の大学、図書館、大企業、外国大使館、法律事務所等に輸出され、年毎にその知名度が広く浸透しつつあり、日本が経済大国として発展するにつれ、世界的視野から広く注目され、国際化の進展に伴って、英文法令社の果たす役割も益々期待されると同時に責任の重大さを痛感するものである。


財団法人英文法令社設立趣意書(昭和31年6月12日)
https://www.eibun-horei-sha.co.jp/japanese/charter